お豊石の由来 由来のひとつは「余戸カルタ」に詠われる説。加藤嘉明公の松山城築城の折、「丸に二の字」が刻まれた大きな石があった。あまりの大きさにだれも運ぼうとしなかった。それを見かねたお豊という名の「おたた」が「私が運びましょう」と運び始めたが、日招八幡の境内まで来て倒れこみそのままこときれてしまったというお話。もうひとつは、仇討ちに敗れた悲運の姫君の伝説。京都の藤原豊城という武士に豊姫なる娘がいた。父親を闇討ちにした大井若狭守を追って仇討ちの旅にでたが、若狭守は、伊予松前城主加藤嘉明の家来であった。折しも松山城築城の真っ最中。おたたさんに化けた豊姫は、日招八幡の境内で仇敵にめぐり合った。この時とばかりに石を投げ捨て駆け寄ったが仇討ちに破れ境内で自害した。その豊姫が投げ捨てた石が境内に残されているというお話。 どちらが真説か判らないが、おたたさんの名の由来となった滝姫伝説が松前にあり、言い伝えられる内に仇討ち話となったとも考えられる。ともかく、境内には2個のお豊石がある。